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聖書のあらまし

神と救いを知ってみたいあなたへ

 

① 神と聖書について

2テモテ書3章16節

 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。  

                        

2ペテロ書1章21節

 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。 

            

 

 聖書は人間が作り出した経典ではありません。神がご自分のことを人間に伝えるために、ある人々を用いて書かせたものです。聖書は、2つのパートから成り立っています。旧約聖書と新約聖書です。旧約聖書は預言者と呼ばれる人々によって書かれ、新約聖書はイエス・キリストの使徒(直弟子)か、使徒に非常に近しい人によってのみ書かれました。

 その聖書によれば、神とは、始まりも終わりもない唯一の永遠の存在者であり、霊であり、完全に聖い方であり、ゆえに完全に正しい方であり、しかも本当の愛を持つお方です。そして、すべての創造者、全知全能者、ゆえに絶対的主権者です。そして、神は「主」という名によってご自分を明らかにしています。

 神は、なぜ人に聖書を書かせて、私たちに与えたのでしょうか?それは、聖書の中心的テーマでもあります。聖書は、救い主によって人間に救いがあることを教えています。旧約聖書は『神が救い主を送ってくれます』とメッセージしており、新約聖書は『神は約束した通り、救い主を送ってくれました。それがイエスというお方です』というメッセージです。

 

 

② 創 造

 

創世記1章1節

 初めに、神が天と地を創造した。 

 

同26-27節

 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。   

 

同31節

 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。 

  

 『人間はどこから来たのだろう?』 ふと、そんなことを考えたことはありませんか。神がお造りになったのです。神が世界を造られた時、それは非常に良いものでした。問題点はなかったのです。*1  そして、神は人間をご自分にとって、とりわけ特別なものとして造られました。ご自分のかたち、すなわち、霊を持つ存在として造られました。これは当初の人間が、神と意思疎通できる愛の対象であった、ということを示しています。*2 

*1.この世界は決して偶然の積み重ねでできたのではなく、またそれによる進化によって発生したのでもありません。進化論は科学的にも数学的にも証明できないものです。

*2.神は唯一であるのに「われわれ」と書いてあります。聖書を読むと神は父・子・聖霊の3つの人格がありながら、おひとりの存在だと分かります。それで「三位一体の神」とキリスト教では言い表しています。神は人間の理性の中におさまる方ではありません。

 

 

③ 堕落と裁き

 

創世記2章8-9節

 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。 

同16-17節

 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 

同3章4-6節

 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 

同23節

 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。 

 

 神は最初の人間(アダムとエバ)をその名もエデン(「歓喜」の意味)の園に住まわせました。人間は神の簡単な戒めを守る限り、そこで神を喜んで生きることができました。また、この戒めを一定期間守るなら、神は人間に「いのちの木」を与えて、永遠に喜びが続くようにされたはずです。ところが、蛇(後にその正体がサタンだと明らかにされています。それで、サタンが動物の蛇を用いたと考えられます)が人を誘惑し、人は神の戒めを破りました。この神の戒めを破ることが聖書で言う「罪」です。神は聖なる正しい方ですから、予告しておいた通り、罪に対して裁きを下しました。すなわち死です。この死は肉体的に死ぬことだけではなく、神との交わりを失うこと、永遠の喜びの命を失うこと、また、肉体の死後には永遠の裁きを受けるという意味です。『たったこれっぽちの罪で?』とは思わないでください。神の完全な聖と正しさは1つの罪を見逃せるものではなく、1つの戒めを破ることは神の戒めのすべてを破ることに等しいのです。例えば有名な神の戒め「十戒」の最初の戒めをあなたは守っていますか?そこには、こう書いてあります。「あなたには、わたしの他に、他の神々があってはならない」(出エジプト記20章3節)。偶像の神を持つことだけでなく、無神論者もこの戒めに違反しています。主を神とせず、礼拝せず、仕えていないからです。

 この最初の人の罪によって、全人類に罪が入り、死が入ったのです。人間は罪の性質を持って生まれ、罪の心と事実犯した罪のゆえに神の裁きを受けることが定まっています。神の前に罪のない人はいません。ひとりもいません。

 

 

④ 救いの計画と実行

 

創世記3章15節

 「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」 

同21節

 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

                                          

 しかし、神は人間が堕落することをご存じであったので、罪人を救う手段も予め計画していました。でも、罪人は裁かれて当然なのに、そして、神は聖さのゆえに必ず罪に裁きを下す方なのに、どうやってそのような事が可能なのでしょうか。ここで神は、驚くべきご自分の愛を持ってそのことを計画されたのです。その救いの計画は、上記の聖書箇所のように最初の人アダムのときからすでに見られます。すなわち、救い主は女の子孫としてこの世に来て、サタンを踏み砕くこと、そして、罪の身代わりに血が流され、それで罪が覆われることです。この箇所だけを読んでもそこまで分からないと思いますが、時代が進むごとにそれは明確にされて行きます。さらには、救い主はダビデ王の子孫として処女から生まれることや、神の御子であることや、全世界に平和をもたらす方であることや、殺されること、そしてよみがえることで救いをもたらすことなどが旧約聖書に預言されています。救い主は「油注がれた者」(ヘブル語で「メシヤ」。ギリシャ語で「キリスト」)、すなわち王・祭司・預言者の働きをすると言われています。こういうことで人々は救い主のことを「キリスト」と呼ぶようになりました。

 そして、旧約聖書に非常に多く預言されていた全くその通りの方が、今から約2,000年前に現れました。その方がイエスです。考えてみましょう。このお方は三位一体の神の御子です。それなのに、処女から生まれることにより罪を持たない者としてこの世に来られました。偉大な栄光の地位を捨ててです。滅ぼして当然の罪の汚い世界に神が人となって来たのです。いったい何をしに来られたのでしょう。まずイエスは、神の戒め全てを守り通しました。そして、人々から罪がないのに罪人にされて、十字架で殺されました。そうです。イエスは、神の救いの計画を実行するためにこの世に来られたのです。私たちの罪が赦されるために、誰よりも尊いお方が、神の怒りの刑罰、死の刑罰を代わりに受けるためにこの世に来られ、死んでくださったのです。しかし、これも聖書が示していた通りの事ですが、イエスは3日目に墓からよみがえりました。このよみがえりによってイエスが救い主であり、十字架の死が私たちの罪の身代わりであったことが、明らかにされました。ですから、私たちは神と和解することができるのです。神と交わりを取り戻すことができるのです。イエスの復活により永遠の命を取り戻すことができるのです。死んで神の永遠の裁きを受けるのではなく、神がおられるところ(天国)に行くことができるのです。

 

1ヨハネの手紙4章9-10節

 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 

 

 

⑥ 救われるためには?また、救われた証拠

 

 しかし、どうしたらこの救いを受け取ることができるのでしょうか。神は、「悔い改め」と「信仰」を求めています。

 「悔い改め」。すなわち、自分が神に対して罪があることを認めること。そして、神が嫌う様々な罪を憎み、罪から離れ、神との交わりを回復したいと願うことです。

ルカ福音書5章32節

 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」 

 「信仰」。すなわち、父なる神が、御子にあなたが受けるべき死の刑罰を十字架で完全に受けさせたこと、そして3日目によみがえられたこと、また、イエスがあなたの「主」であることを信じることです。

ローマ書4章24節

 すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。 

 

使徒16章31節

 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたは救われます。あなたの家族も同じです」と言った。 

 

 では「私はイエスを信じて確かに救われました。私は死んでも天国に行きます」と言えるその人の証拠はどこにあるでしょうか。イエスを本当に信じた人は、神によって新しくされた人です。その人の内には神の御霊がともにいてくださいます。

ガラテヤ書3章13-14節

 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 

 

同4章4-6節                                        

 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

                                          

 ですから、その人は自分の内で心が変わったことに気が付くはずです。その人の心には罪が赦された神への喜びや感謝があります。イエスに従いたい気持ちが生じています。自分の力ではなく、神に頼り信頼したい思いがあります。自分の内の罪を憎み、そこから離れる悔い改めの心が継続しています。もっと、イエスを知りたいという思いや、神を礼拝したい思いを持っています。イエスを信じた人々とイエスについて話したい思いがあります。もちろん、罪の性質は肉体に宿ったままですから、何千回となく失敗してしまうでしょう。しかし、その人はそれを良しとしません。うちにおられる御霊の導きに従って、その罪の力を非常に弱めて行くことができます。これらは、その人の行動となって現れます。

 

 

⑦ 最終的希望

 

 さて、復活された主イエスは、その後どうされたでしょうか?40日間、弟子たちを指導した後、弟子たちの目の前で天に上って行かれました。そして、またおいでになる約束をしておられます。そして、ご自分を信じる者たちを救い入れ、最終的な裁きを持って悪を一掃し、万物を罪のない新しい世界に造りかえられます。主イエスは今度こそ王の王、主の主として、ご自分を世界に明らかにする日が来るのです。私たちは、その日を切に待ち望みながら、主がいつ来られてもいいように敬虔な人生を送ります。

 主イエスよ、来てください!

 

使徒の働き3章20-21節

 それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。 

                                      

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